幸福度が低くなるパターン
はまりがちな幸福感が感じられないパターンについて思うことです。
よく教会では、次のように言われます。
「人間の価値は、地位や名誉、財産など目に見えるものではなく、真の愛である」
確かにそういう面はあると思いますが、極端に偏りすぎると良くない気がします。
結果、人格者の地位に固執してしまうケースがあると思います。
内心は地位や財産が欲しかったりするのですが、自分でも認めたくないのか自覚していない事もあると思います。
だから、何故か実際に社会的立場がないとか、給料が少ない事に不満を持ってしまって幸福度が上がりません。
心の中が矛盾しています。
また、教会に来てない二世が出世したり有名になると祝福は凄いとか、知り合いだと言いふらしたりするのも矛盾しています。
結局、地位や名誉を重んじています。
銀河鉄道999を思い出した
最近はAIの発達などで急激に科学が進歩してるように思えます。
懐かしい漫画ですがこの物語を思い出して感じたことです。
松本零士先生の作品。
物語は以下のような内容です。
主人公の鉄郎は機械の体を無料でくれるという星を目指して、母親に似た美女のメーテルと共に旅をする。
様々な冒険を経て、ようやく目的の星に到着した。
そして、機械の体になるかどうか最終的に選択する場面になる。
メーテルは鉄郎に自分でよく考えて決めなさいと言う。
結局、鉄郎は機械の体にはならないと決断する。
限りある命だからこそ、大切に生きるのだと。
ところが、機械の体にならないとわかると機械帝国の女王によって強制的に機械の体にされそうになる。
実は永遠の生命を得る機械の体というのは、機械帝国を維持する為のネジにされるというものだった。
最後は機械帝国を破壊することになる。
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そんなお話でしたが、これって私が教会で幸福を求めて歩んだ事に通じるものがあると思いました。
永遠の生命を餌に引き寄せられて、結果的には献金をはじめとして組織の食い物にされます。
私は楽をして、良い思いをしたかったのだと思います。
だから引っかかってしまったと思います。
教会で見かけた都合の良い解釈
統一教会の教えでは、どんな人も同じ神の子であるから、兄弟姉妹や父母や子供のように愛するべきだとなっています。
ところが、一方では、サタンには断固として立ち向かうべきだという考え方もあります。
例えば、イエス様がサタンに誘惑された時のように。
「サタンよ去れ!」のような感じで。
ですから、このような場面は例外で、相手がサタンであると認定した時は、敵意を向けて戦います。
サタンであるかどうかは、法律を違反したとか、犯罪をしたという観点だけではなく、
みことばに照らし合わせて、その人が決めるのだと思います。
また、サタンではなくても、
サタン=神様に反すもの
という考えから、相手の考えを否定する事を正当化するのとにつながるのではないでしょうか。
相手は、一方的に神様に反した考えだとレッテルを貼られると衝突する事になると思います。
そして、力関係でどちらかが強ければ、力でねじ伏せる事も出来るかもしれません。
許せ、愛せ、団結せよという言葉がありながら、場合によってはサタンを持ち出して、正義の名の下に、相手を攻撃することもある。
いやはや。
子連れ狼みたいな心境
給料をもらう為、自分の生活費を得る為に、良心に呵責を感じながら仕事をする場合があります。
会社の方針ではあるが、これは人の為になっているだろうか?
もちろん家族の為にはなっているのだと思いますが。
どうなんでしょうかね。
「涙隠して、人を切る〜」
ある宗教2世の悩み(仰天ニュース)
ザ・世界仰天ニュースというテレビ番組で、
最近、「ある宗教2世の悩み」というお話を放送していました。
おそらく、キリスト教系の信仰宗教の事だと思いました。
母親の信仰の影響で、その子供の女の子が、幼い頃から、その宗教のしきたりを守るように育てられて、学校や社会でつらい思いをするという内容でした。
統一教会においても、その家庭やその他環境の程度の差はあるかもしれませんが、同じような事があると私は思います。
ここで私が思う事は、統一教会の現役食口は、この放送を見たら、どんな風に思うだろうかという事です。
この放送を見ても統一教会の二世教育とは関係がないと思うかもしれません。
形は似ているけれども、他の宗教は神の摂理にかなっていないからダメで、統一教会は正しいから子供がどのように感じようとも良いのだと堂々と言うのでしょうか。
もし、このような事が統一教会にもあると思うならば、教会の在り方に疑問を抱くでしょう。
疑問を抱いても、その心に蓋をする、あるいは無視するならば現状は変わらないと思います。
結果的に子供の成長が順調でないならば、一度考えてみた方が良いと思います。
統一教会、家庭連合は正しい、メシアは文先生であるという事が原点となってしまうとどんな事があろうとも教会にとって都合の良い解釈をしようとします。
まさに、盲目の状態です。
メシアを信じて祝福を受けたならば幸せになっていなければなりません。
自分や自分の家庭が幸せになっているかということに疑問を感じたならば、一度、原点を疑ってみる必要があると思います。
人を見下す習慣
私が長い教会生活で身についた嫌な習慣ですが、自分でも気づかないうちに人を見下していたり、上から目線になっていると思う事があります。
そう思った時は、自己嫌悪になり、早く治さなくてはいけないと思います。
そもそも私にはコンプレックス、自信の無さがあり、人に対して優越感を持ちたい心があったのだと思います。
統一教会の原理という人々が知らない究極の原理、メシアを知っているという優越感、それを伝えるという優越感、そんなものに浸っていたのだと思います。
たとえ、それが真実だったとしても、ただ知っているだけなのに。
長い長い間、浸っていました。
それでは人間は成長しません。
しかし、見方を変えれば、それで生きてこれたのかもしれません。
一方で、心の中で優越感に浸りつつも、現実的な見方をするときには、統一教会が恥ずかしくて隠す事もあるのです。
私がなりたいのは、他人の価値も認めて尊敬出来て、自分の価値も認めて、堂々と生きれる人間です。
だから、人を見下した自分の心に気づいた時には、心を改めていきたいと思います。
今日がその1日にあたります。
読書、「あなたの天職がわかる16の性格」
自分のタイプを確認する上で、役に立った本です。
自分というものもわかっているようでわかってないと思いました。
活字に落とし込んで、確認すると自分の長所や短所が自覚出来るものだと感じました。
特に自分の長所を言えるかと言えば、なかなか言えない自分でした。
そういう意味でこの本のお陰で整理出来ました。