統一教会から逃げてきた男

長年通った教会を辞めて新たな生き方を模索しています

霊的闘いというもの

統一教会の中で出会った考え方の中に、"霊的闘い"というものがありました。

これは役に立つのではないかと思います。

"精神的な闘い"という感じですが、霊界が存在する事を前提とする言葉ではないかと思います。

 

心の世界が現象化するという事は、よく聞くお話です。

"病は気から"とかよく耳にしますし、あり得ると思います。

また、心の中の不安定な状況が行動に現れてきます。

最近では、うつ病になる人も多いようですし、心の悩みから、不登校や引きこもりなどで本人や家族もつらい思いをしている方もいます。

人間の思いが行動になるということは、他人からみればそれは現象とも言えるのではないでしょうか。

そうであれば、多くの人の心が多くの人の行動になり、社会や、家族の現象として現れるのではないでしょうか。

教会の原理では無形の世界が有形の世界に反映するとされていて、無形の霊界が主体であり原因的であるとされています。

私はこの考え方は、教会から離れた今も信じています。

別の言い方としては、この霊界は潜在意識と同じようなものではないかと思いますが、思いが は現象化するのではないかと思います。

 

スポーツの世界でも精神的な闘いの影響が大きいと思います。

勝つと信じる為には、その信じる心を支える根拠がなければなりません。

その根拠とは、自分の努力であったり、与えられた環境などだと思います。

人間は集団の生き物であり、どんなに自分が努力しても環境が悪ければ報われませんし、勝つ事を信じる事も出来なくなります。

 

そういう意味で、良い状態になる為には、自分が勝つと信じることが出来るように、出来るだけ環境を整えたりしながら、心を調整するという"霊的闘い"なるものが大切なのではないかと思います。

 

問題から目をそらすのも良くないと思いますし、悪いニュースに心を乱されるのもまた良くないと感じるこの頃です。

 

 

生きる喜びや素晴らしさを見つけていく

私は弱かったので、人に傷つくことも多かったように思います。愛を求めて統一教会に惹かれたのかもしれません。

統一教会では、神の愛の素晴らしさや、霊界での永遠の世界の価値を伝える場合に、世俗的な喜びを否定する事がありました。

 

よく言われる言葉としては・・・

 

お金や地位、名誉を得たとしても虚しい、そのようなものは霊界まで持っていけない。

聖書のイエス様の言葉で、何を食べよう、何を着ようかと思い煩うな。

世の中には愛がない。

世の中の愛は不倫な愛で家庭が崩壊してきている。

 

もともと世の中が面白くないと思っているところに自分に都合の良い理論があったので、その通りだと納得していました。

 

そのような言葉を間に受けたせいか、世の中のものが、無駄に思えたり、軽くみたり、見下したりしていたと思います。

そのようにして、人を見下して優越感を味わいたかったのかもしれません。

 

しかし、最高の理想のみを価値視することで、周りのものが色あせて、いろんなことがつまらなく感じるようになったのではないかと思います。

 

今、統一教会を離れて、自分の心を改めて構築していく中で思うことは、日々の生活の中での一つ一つの出来事をもっと大切に、丁寧に気持ちで扱っていく生き方をしてくれば良かったと思います。

特に子供のことでは、原理的解釈で答えを出すとかではなく、子供の気持ちに寄り添うとか向き合うとかしていたら良かったと。

 

まあ、後悔しても仕方のない事だと思いますので、趣味や人間関係、食べること、世の中の出来事、仕事においても、これからでも悔いのない生き方をしたいと思う今日一日です。

 

 

 

無償の愛か?あるいは条件的な愛なのか。

統一教会の教えの幹には、真の愛というものがあります。

この世で一番高いレベルの愛だと思いました。

しかし振り返って考えてみると、どうもスッキリしない思いになります。

 

教会に通っていた頃、み言葉を読んだり、説教を聞いて、神様や真の父母様の素晴らしい愛の世界に心を奪われていきました。

自分には、とても理解する事が出来ない高いレベルの愛の世界であり、それを少しでもわかる自分になろうと努力していました。

自分には、愛がないと常日頃から思っていました。

その愛のみ言葉の世界と比較して、自分の心の中の醜い感情を感じていたからです。

人のためにとか言いながら自分のことしか考えられない私であると思いました。

 

今、お母様はよく責任を果たせと言われます。

責任を果たさなければ愛されるべきではないという脅迫があると感じます。

無条件でとんでもない恩恵を受けていると自覚しなさい、そして、責任を果たしなさいと言われます。

これは条件付きの愛ではないでしょうか。

 

み言葉によって神は愛であり、神に通じるものは愛があるという前提を作り、いつのまにか丸め込まれた感じがします。

 

オウムの地下鉄サリン事件のテレビ番組

最近、オウム真理教地下鉄サリン事件のテレビ番組を妻が見ていました。

 

刑事がサリンを作った土谷 正実という信者をどのようにして口を割らせるかという内容でした。

 

私は妻がこの番組をどのような気持ちで見ているのかという事に関心を持ちました。

土谷 正実のオウム真理教への信仰と、自分の統一教会の信仰との関係をどのように意識して見ているのだろうかと思いました。

 

これを聞くことは、水をさすことになると思い何も聞きませんでした。

統一教会への信仰に疑問を持ってくれたら良いと思います。

 

 

 

 

結局、祝福受けても不幸から脱出していない

結局、問題が解決していないと思います。

 

そもそも統一教会で感じた希望は、人間の不幸の原因を断ち切って、新しい幸福な人生が得られるというものでした。

 

統一原理によると、人間の世界で戦争を始めとする様々な苦しい歴史の原因は、人間の心の中にある善と悪の矛盾した性質からきているとされております。

人間には堕落性という後天的な悪なる性質があり、アダムとエバの堕落の結果生じた原罪から生じた性質だと聞きました。

どんなに人格を磨いて修行しても原罪がある限り問題は解決しない、原罪を断ち切らなければ真の幸福は得られない。

だから、その悪なる血統から、祝福結婚によって神の血統に戻ることによって、幸福な世界が実現できるのだと・・・。

 

私はその話を信じてしまい、自分の子供は原罪のない神の血統になるところに希望を感じていました。

 

しかしどうでしょう。

自分の子供が成長するに従い、様々な問題が発生するし、他の祝福家庭を見ても難しい問題を見るようになりました。 

教会では、それらの問題に対して、我々には遺伝的な悪い因縁や怨みのある霊人の影響がある事が原因だという考えが広まってきました。

その解決方法が清平での解怨役事です。

 

変な話です。いつのまにか話が逆転して、祝福を受けて原罪を清算しても、歴史的な悪因縁がある限り、幸福にはなれないというのです。

 

これでは、私たちが地上に生きている間に自分が幸福になるとか平和になるとかは思えなくなってきます。

自分も家族も問題だらけだけども、何百年か先の幸福の為に一生をかけるなんて馬鹿らしくなってきます。

結局、何も問題は解決していないし、解決の見込みも怪しいのではないかと思います。