統一教会から逃げてきた男

長年通った教会を辞めて新たな生き方を模索しています

愛し難きを愛するとは

教会でよく言う言葉で、愛し難きを愛するというのがあります。私は今ではそのようにしようと思いませんが、改めて考えてみました。
事実であるかはわかりませんが、聖書によるとイエスキリストは自分を殺そうとするローマ人やユダヤ人の事を神に祈ったそうです。
『父よ彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているのかわからないでいるのです。』
慈悲深い言葉だと思います。
その人々の事を思っているわけですから、実行する事はとても難しい愛の形だと思います。


その愛が確かなものかは、自分の死を引き換えにする場面でしか証明する事は難しい事でもあると思います。
だから、日常で愛せない夫を愛するとか、自分をいじめる会社の上司を愛するとか言ってみたり、何かをしてあげたとしても死を引き換えにする行動とは質が違うと思います。
さらに言えば、わざわざ人を悪者にして、その悪人を愛する善人の自分を演じようとしてるようにも感じます。


愛し難きを愛さないといけないとか口で言っても、多くのそれは愛ではないという気がします。


そんな事を言ってる私自身を見つめると、教会生活での恨みなのか、世の善なる人々のように人の為に奉仕する事は出来ないひねくれた人間になってしまったかなと思います。
災害時など、人の為に動いてる人たちを見ると自分が嫌な人間に思えます。

偽善者が嫌いなのは私も偽善者ということか。