統一教会から逃げてきた男

長年通った教会を辞めて新たな生き方を模索しています

ワ○ム

ワ○ムという会社が成功したのは嬉しい事です。理由は教会の思想に良い面もあると思わせてくれる事です。

社会の為になっていると思います。

私は社会の為に貢献している会社は素晴らしいと思います。

そして教会と縁を切っても存続している事は更に良いです。

今のところ天罰は受けてないように思えます。

ワ○ムで働いている教会の社員はどのように暮らしてるのでしょうか。

私もワ○ムのように、教会から離れましたが、教会に通う多くの人は良い行いをしようと思っています。

二世問題、子供たちに対しての責任はとても重いと思いますが・・・。

教会で得た良いところは活かしてやっていけたら良いと思います。

社員にとって望ましい会社組織

毎日、会社員として勤めてますが、社長の無理と思える指示に困っております。どうしてこんな無茶言うのかなと。
そんな事を考える時、会社組織を1人の人間に置き換えて考えたりします。
こんな風に考えるのは、昔学んだ統一原理の癖でしょうか。
理想の社会は、メシアを中心としてあたかも1人の人間のように一つになるというような話です。
今ではそれを理想とは思いません。


話を戻します。
人間はどうして自分の体を守るかという理由の一つは痛みを感じるからだと思います。
痛いのが嫌だから大切にしようとする。
そして体を壊すと今まで出来ていた生活を続ける事が出来なくなります。
最後には生命を失うことになります。


会社組織も社長が痛みを感じれば社員を守るのかもしれません。
そうあって欲しいと思います。
では、別の個体である社長がどのようにして痛みを感じるか、どのような痛みを感じるか考えてみました。
直接、体の痛みは感じませんので、心の痛みとか経済的ダメージということになります。
そして体が神経を通して痛みを感じるように、組織を通じて社員の声が伝わるのだと思います。
社長が社員の悲鳴を感知出来なければ、社員はやがて気力を失い生産性が下がって経済的ダメージにつながり会社が傾くかもしれません。
そして退職する社員も出てくると会社の運営が出来なくなってきます。
そして最後は倒産するかもしれません。
それが会社組織の場合の痛みでしょうか。


体は脳に対しては命令は出来ませんので、体を守るためには、或いは人間全体を守るためには痛みを伝える事しか出来ないのかもしれません。
人間に成長の為の筋肉の痛みとかあるように、組織も発展のためには多少辛いこともあると思います。
そのような痛みも乗り越えていけるような組織なら良いと思います。
社員を道具のように思わないで、自分の体のように思いやりがある組織であって欲しいと思います。

神仏を信じること

近頃は教会の束縛もなく、仕事中心の生活を続けておりますが、それはそれで辛いこともいろいろとあるものです。当たり前の事でしょうが。
そうして、統一教会から離れた暮らしでフラットな状況の中で思うこともあります。
仕事上の辛い事が重なったときなどは考えたりします。
神や仏を信じていることによって、日々の自分の心を出来るだけ平安に保ったりすることも出来るのでではないかと。
それから、神仏を信じる人と付き合う方が、比較的大きなトラブルにはならないように感じます。
特に同じものを信じるもの同士は心が通じやすいものだと思います。


そのように考えもしますが、今は素直に神仏に心を傾けてゆく事は出来ないで、私の心は冷めた状態です。

 

 

 

愛し難きを愛するとは

教会でよく言う言葉で、愛し難きを愛するというのがあります。私は今ではそのようにしようと思いませんが、改めて考えてみました。
事実であるかはわかりませんが、聖書によるとイエスキリストは自分を殺そうとするローマ人やユダヤ人の事を神に祈ったそうです。
『父よ彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているのかわからないでいるのです。』
慈悲深い言葉だと思います。
その人々の事を思っているわけですから、実行する事はとても難しい愛の形だと思います。


その愛が確かなものかは、自分の死を引き換えにする場面でしか証明する事は難しい事でもあると思います。
だから、日常で愛せない夫を愛するとか、自分をいじめる会社の上司を愛するとか言ってみたり、何かをしてあげたとしても死を引き換えにする行動とは質が違うと思います。
さらに言えば、わざわざ人を悪者にして、その悪人を愛する善人の自分を演じようとしてるようにも感じます。


愛し難きを愛さないといけないとか口で言っても、多くのそれは愛ではないという気がします。


そんな事を言ってる私自身を見つめると、教会生活での恨みなのか、世の善なる人々のように人の為に奉仕する事は出来ないひねくれた人間になってしまったかなと思います。
災害時など、人の為に動いてる人たちを見ると自分が嫌な人間に思えます。

偽善者が嫌いなのは私も偽善者ということか。

 

宇宙人がいるとしたら

最近、AIが話題になってますね。科学は発達して、危険な場所にはロボットが作業にあたり、人間はモニターを通じてコントロールする事が出来るような時代になってきてるようで驚きます。
テレビで人間型のロボットを見てると、なんか宇宙人のような感じだなぁと思いました。
宇宙人がいるとしたらロボットかもしれないと思います。


もし宇宙人がいたとして、生活環境の違う地球にわざわざ来るかな〜。

高度に発達した文明があれば、ロボットに行かせた方が良いんじゃないかと思ったりします。
よくある宇宙人の姿は、あまり生物的ではなくてツルッとした感じですよね。
毛むくじゃらや爬虫類みたいなのもいますが。


宇宙人がいるとしても、これまでは人類に大きな悪影響は与えていません。
高度な文明を築く程に発展した存在は、戦争などで共倒れすることなく来たわけで、人間が出来てるのかもしれません。
人間ではありませんが。


取り留めもない呟きでした。

 

 

 

 

 

 

愛って何?(妄想です)

私の勝手な妄想、空想?です。
愛って何だろう?と思う事があります。
きっと誰もが思う事なのでは?
愛というものは蜃気楼のようなものではないか?
と思ったりします。
見えてる美しい景色は本当はそこにはなく別の場所にあるものの残像みたいなもの。
愛が見えてる場所に行っても実体がない。
つかんだら消える。
でも確かに見える、感じられる。
でも、ここに愛があるよ、と言う言葉は嘘なのかもしれないなぁと。


愛などという言葉を口に出すことのなかった頃に戻りたいと思ったりします。
昭和の時代の人間なのでしょうか。

学生の頃の思い出

学生の頃、教会に通っていましたが、学校ではやたら眠くて勉強になりませんでした。

統一原理を聞くようになってから、世の中の事に関心を持ちづらくなったように思います。

非原理世界と見下していたのだと思います。

なんとゼミのミーティングの時にも、よく寝ていました。寝ないように頑張っているのですがどうしようもなく眠いのです。

教授を含めて6人程度がテーブルを囲む少ない人数です。

ある日、教授から「なぜ、そこに行くのですか?」と質問されたとき「そこに真理があるので」と答えました。

教授はさらに「真理とはなんですか?」と質問しました。

私は「親子関係だと思います。」と答えました。

そうしたら教授は「この世に真理なんて無い」と言った事を思い出します。

私はそれでも自分は正しいと思っていました。

教授は私の意思を尊重しながらも心配して下さったのだと思います。

今はその教授に申し訳なかったと思います。